John Scofield - The God Father of Jam Band

 ジャズ・ヒストリーを振り返ると、時代により、常に表現領域の拡大をリードしている、特定の、楽器があります。50年代、60年代は、チャーリー・パーカー(as)、マイルス・デイヴィス(tp)、ジョン・コルトレーン(ts,ss)ら、ホーン・プレイヤーが、その飽くなき探求心で、リーダーとして、ジャズ・ミュージックの隆盛に導いてきました。70年代にはいると、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットらによる、ピアノ、キーボード・プレイヤーが、フュージョン・ミュージックの台頭と、孤高のソロ・ピアノで、さらに複雑なハーモニーの表現を可能にしました。80年代中旬以降は、複雑なコード表現と、リズム・アプローチを可能にする、ギタリストの時代ということが出来ると思います。パット・メセニー、ジョン・スコフィールド、ビル・フリゼル、マイク・スターン。そして、彼らの精神的支柱であり、50年代から独自の表現を追求し、今なお全くの衰えを知らない、ジム・ホール。多士済々なプレイヤーが、次々と問題作、衝撃作をリリースしている状況が、もう10年以上続いています。その中で、別格御大のジム・ホールを除いた御三家といったら、映画音楽のような緻密な構成のアレンジとアドリブの、パット・メセニー、現代のセロニアス・モンクともいわれ、ブルー・グラスからカントリーまで独自のスタンスで、自己のスタイルを拡大し続けている、ビル・フリゼル、そしてジャム・バンド・シーンに乱入し、次々と有望な若手を登用して、自己の音楽の充実させて、かつてのマイルス・デイヴィスのような活動を見せているジョン・スコフィールドといったところが妥当でしょう。

 私が、NYに2度目の旅行で、長期滞在していた87年に、始めて自宅訪問取材をしたアーティストが、ジョン・スコフィールドでした。当時、彼はマイルス・デイヴィスのグループから独立し、デニス・チェンバース(ds)を擁した、強力ファンク・グループを率いていた頃で、その動向は、パット・メセニーと並んで、注目されているときです。マンハッタンの西側、リバーサイドにある、NY市に認定されたアーティストだけが住める、公営住宅アパートに、9歳になるお嬢ちゃんと、その弟の坊や、そしてマネージャーでもある、愛妻スーザンさんと住んでいました。同じビルに、生前のギル・エヴァンスがおり、深夜にアイディアにつまると、階段をうろうろしていて、なかなか不気味であったとのことです。閑静な住宅で、創作活動に専念するには、絶好のロケーションでした。その後、メジャーレーベルの、ブルーノートに移籍し、ストレート・アヘッドのギタリストとしても確固たる地位を築いた、スコフィールドは、子供の学校の関係で、郊外の一戸建てに、引っ越します。その家を、2000年夏に訪れ、アイバニーズのASA200と、アコースティック・ギター以外は見たことがなかったのですが、実はたくさん持っていた、ギター・コレクションを取材し、近年の動向に関しても詳しい話を聞く機会をもてたのでした。

 自宅を訪れると、お嬢さんが迎えてくれました。マンハッタンのアパートを訪れた頃は、まだ子供だった彼女も、もう大学生です。スコフィールドの髪の消失とともに、時間の早さを感じさせます。スーザン夫人とも旧交を温めつつ、前年に亡くなった、トコさんこと日野元彦さんの思い出話に花が咲きました。スコフィールドが、プロ・キャリアをスタートして間もない70年代後期ごろ、デイヴ・リーブマン(ts,ss)の紹介で、 日野皓正=菊池雅章バンドのツアー・メンバーのオーディションを受けます。合格したスコフィールドは、日本ツアーに行き、そこでトコさんらのサポートにより、ファースト・アルバムのレコーディングの機会を得ました。アイバニーズとの契約も、この時にまとまったそうです。また、70年後半から、80年ぐらいにかけて、NY修行中のトコさんは、セッション仲間でもあり、苦楽をともにした友情で結ばれていたのです。99年には、夏のテキサコ・NY・ジャズ・フェスティヴァルのスペシャル・ライブで、トコさんをフィーチャーしたバンドに友情出演する予定もあり、その早すぎる死を、スコフィールドも惜しんでいます。

 スコフィールドのキャリアは、日野グループ参加後、急速な発展を遂げます。エンヤ・レーベルにいくつかの野心作を録音し、その独特のブルース・フィーリングと、リズム・センス、そしてアウト・スケール感で、強烈なスタイルを確立していきました。そして、80年代半ばに第二期マイルス・デイヴィス・カムバック・バンドに参加します。マイルスの常套手段で、バンドの優秀なOBである、デイヴ・リーブマンと、現役メンバーだった、ビル・エヴァンス(ts,ss)の、推薦を受けての登用でした。マイルスは、スコフィールド起用後も、しばらくマイク・スターンとの2ギターにし、弾きすぎるきらいのある、スターンに、少ない音を効果的に使うスコフィールドのやり方を、見習って欲しかったようですが、それは、あまり効をなさないうちに、マイク・スターンは退団となりました。このグループの日本公演を、大学生の頃に聴いた友人によると、マイルス・グループが、ほぼ完全にスコフィールドのサウンドに塗り替えられていたとのことです。しかし、マイルスがそこにいて、トランペットを吹いた瞬間にすべては、マイルス・デイヴィス・ミュージックになるのです。マイルスは、スコフィールドの、ブルース&ファンク・フィーリングを、グループに注入したかったようです。マイルス・グループ在籍時には、”スター・ピープル”、”デコイ”、”ユー・アンダー・アレスト”の3作品に参加している、スコフィールドですが、”デコイ”がスコフィールド色が、一番強いアルバムといえるます。マイルス・サウンドのフィードバックを獲て、同時期に、グラマビジョンから、”エレクトリック・アウトレット”、”ラウド・ジャズ”、”ブルー・マター”、”スティール・ウォーム”と、フュージョン時代の末期に咲いたあだ花のような、諸作をはなっていたスコフィールドですが、いよいよマイルス・グループから独立し、デニス・チェンバースを擁した、自己のグループでのツア-を開始します。87年の日本ツアーの最終地、東京の人見記念講堂でのコンサートは、ライヴ録音され”ピック・ヒッツ”としてリリースされました。当時のジョン・スコフィールド・バンドの、絶頂期のドキュメンタリーです。ツアーすべてを録音し、選りすぐりのトラックを編集したライヴ盤”トラベルズ”をリリースした、パット・メセニーは、”ピック・ヒッツ”を評して、たった一晩で、”トラベルズ”を越える、ライブ盤を作られてしまったと、悔しがったそうです。

 この第一期ファンク・グルーヴ時代の、黄金期にスコフィールドは、自己のバンドを解散し、ストレート・アヘッド・ジャズへ、突然シフトします。しかし、独特のサウンドとリズム・センスは、相変わらずですが、2つのギター・トリオによって録音された”フラット・アウト”を最後に、NYのインディ・レーベル、グラマビジョンを去り、メジャーのブルー・ノートと契約、バークリー時代の親友、ジョー・ロバーノ(ts)、若手のビル・スチュアート(ds)をフィーチャーした、トラディショナルなギター・カルテットで、渋めの路線を突き進みます。実験作的な要素が強い、ビル・フリゼルとの共演作や、ビッグ・ヒットを記録した、パット・メセニーとの共演作をリリースし、順調にジャズ・ギタリストとしてのキャリアを積み上げていきます。92年に、グループを去ったジョー・ロバーノに替わり、スコフィールドは、ピアノとオルガンをこなす、若手プレイヤー、ラリー・ゴールディングスを、久々のコード楽器プレイヤーとして、レギュラー・グループに起用します。この頃の、ライヴは、スケール・アウトが強烈で、フリージャズとの狭間をさまよっている、往年のコルトレーン・カルテットのような、風格をも持っていました。そしてゴールディングスが、オルガンをプレイする比重が増えるにつれて、そのサウンドは、アコースティック・ファンクともいうべき方向に、傾倒していきました。95年、ファンク・ホーン・アレンジをフィーチャーした”グルーヴ・イレーション”を最後に、ヴァーヴに移籍します。その第一作は、なんとアコースティック・ギターをフィーチャーした”クワイエット”という異色作でしたが、98年初頭に、移動の合間にNYのホテルで行ったインタビューで聴かせてくれた、第2作に衝撃を受けました。その前年の、ニッティング・ファクトリーのジャズフェスティヴァルで私は注目し、NYのアンダー・グラウンド・シーンでは高い評価を得ていた、異色のオルガン・トリオ、メデスキー、マーチン&ウッド(MM&W)との共演盤だったのです。空間の間を生かした、妙にスカスカした、独特のファンク・グルーヴこそ、21世紀を目前に控えた、スコフィールドが辿りついたニュー・サウンドです。しかしこのアルバム”ア・ゴー・ゴー”、デニス・チェンバースを擁した、第一期ファンク時代のイメージが強い日本では、今ひとつ高い評価は得られませんでした。しかし、アメリカでは、99年ぐらいから、あらゆる音楽ジャンルを横断して盛り上がってきたジャム・バンド・ムーヴメントの中で、メデスキー、マーチン&ウッドが、カリスマ的人気を獲得。”ア・ゴー・ゴー”はこのムーヴメントを語るときに、絶対にはずせないバイブル・アルバムとなり、スコフィールドは、今までジャズに触れたことのない若いリスナー層を開拓しました。持ち前の、フットワークの良さ、フレキシブルな音楽性で、スコフィールドは、多くのジャム・バンド系野外フェスティヴァルで、才能ある若手と共演、その中には2001年に大ブレイクしたソウライヴもいました。2000年には、コネチカットを本拠とするファンク・バンド、ディープ・バナナ・ブラック・アウトと、スティーヴ・バーンスタイン(tp)率いる、アヴァンギャルド・ジャズ・カルテット、セックス・モブのリズム陣をフィーチャーした、ジャム・バンド路線第二弾”バンプ”をリリース。3月に、いわゆるクラブであるアーヴィング・プラザでの、新譜発表パーティで、前座を務めたソウライヴと、私は出会い、スコフィールドのジャム・バンド・シーンでの絶大な影響力を知るところとなるのです。この年にはスコフィールドは、久しぶりに、長期にわたるレギュラー・グループを組み、ツアー・サーキットを廻っています。エレクトリックと、アコースティック・ベース両方をこなす、ジェッシ・モーフィー、サンプラーをも操る空間型ドラマー、ベン・ペロウスキー、そして、サウンドのキー・マンは、リズム・ギター、サンプラーのアヴィ・ボートニックです。チャーリー・ハンター(g)の紹介で、スコフィールド・バンドに参加した、ボートニックは、チャーリー同様、オークランドのベイ・エリア出身。ファンク・バンドで、その絶妙なカッティング・テクニックを磨いていました。彼の起用により、スコフィールドは、キーボードのハーモニーに縛られることなく、より自由自在にスケール・アウトし、リズムのダイナミクスを強調したサウンドが可能となったのです。これ以前から、スコフィールドは、セッションで共演した、DJロジックからの影響で、ギター弦を爪でこする音に、ワミー・ペダルをかけ、スクラッチ音のリズム・ソロなどのアプローチも聴かせてくれています。この年は、死期の迫ったビリー・ヒギンズとのレコーディングを残すため”ワークス・フォー・ミー”という、ストレートアヘッド・ジャズ・アルバムを録音していますが、ツアーの間にも、次回作への実験、準備を怠りなく積み重ねていました。若手ミュージシャンとのセッションにも精力的に参加しています。2001年1月のウェットランズ・プリザーヴでの、ソウライヴのエリック・クラスノーが、ホストを務めるセッションにスペシャル・ゲストとして参加、若い者にはまだまだ負けないトンガリ度と、豊富な経験を聴かせてくれ、ほとんど20歳前後の、観客を、興奮のるつぼに巻き込みました。スコフィールドの、出演によって、ウェットランズはほぼ開店以来という大盛況となったのです。このセッションで、スコフィールドは、一人の若手ドラマーと、出会います。クラズノーのセッション仲間で、アヴェレージ・ホワイト・バンドのメンバーでもあるアダム・ダイチです。2001年サマー・ツアー・バンドの、オーディションに合格したダイチは、その卓越したグルーヴ・ドラミングで、スコフィールド・バンドに、デニス・チェンバースを擁していた頃の第一期ファンク時代に匹敵する、第二期ファンク時代の構築に貢献しています。このバンドの旬を記録したアルバムが、先頃リリースされた、”ウバー・ジャム”です。タイトなレギュラー・グループと、ゲストのジョン・メデスキ(org,kb)、カール・デンソン(fl,ts)がからみ、自由奔放で、とんがったサウンドで、第二期ファンク黄金時代の到来を告げています。このグループが、どこまで飛躍するかが、今後のジャズ・ギター・シーンの未来、ひいては、インプロヴィゼーション・ミュージックの未来を、動かす要素といっても過言ではないでしょう。2000年夏の自宅インタビューの時に、ジョン・スコフィールドは語りました。「最近、やっと自分をバンドに起用してくれた頃の、マイルスの気持ちが分かるようになってきたんだ。」ベテランと、若い世代の蜜月関係。新しい刺激と、長年の経験のブレンドの緊張。かつてマイルス・デイヴィスを、常にシーンの最先端に位置づけていた原動力を、いまジョン・スコフィールドは、手に入れたのです。

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