愛しのチャッピー

 天才アラーキーの本の中で、私が大好きなものに「愛しのチロ」があります。陽子夫人と共作で、夫人の遺稿となった「東京日和」と同時期の本ですが、陽子夫人が、貰ってきたチロを、ネコ嫌いのアラーキーが可愛がり始めた頃、陽子夫人が入院。家の中の空白を埋めてくれるチロを、撮り続けるアラーキー先生の写真は、妻への愛情と等しい視線がネコに注がれています。この本では、一時退院で、陽子夫人が戻ってきて、チロと二人で大喜びという、ハッピー・エンドですが、その後の悲しい結末を思うと、チロへの視線の切なさが、つのります。

 アメリカに来て、半年ほどで出会ったチャッピーは、22歳にして初めて家族から離れた私に、その空白を愛情で埋めてくれたような気がします。日々、私が撮りだめたスナップショットと、家に来てくれた人に撮っていただいた写真と、出張で不在のときに預かっていただいたお宅での一コマをまとめてみました。その愛くるしい(すでに親バカ)姿を、ぜひご覧下さい。

 子供の頃から、家にカナリヤとかはいたのですが、意思表示がはっきりした動物が来たのは高校生のとき、コリーとシェパードの雑種犬チェリーでした。甘やかして、なんも仕込まなかったので、お笑いなぐらいお間抜け犬になってしまったのですが、家の屋上に建て増しされた犬小屋の、隣のプレハブ小屋に住んでいた私とは、いつも窓辺で語り合っていたのです。そのころネコというと、家の裏の弘明寺観音の境内にたくさんいて、さかりがつくとうるさいというのと、犬に比べて取っつきにくいという印象しかありません。チェリーと、チャッピーはともに82年生まれ、チェリーの方が、5ヶ月ほど早いのですが、くしくも同じ年齢でした。日本を離れるとき、初孫の私を可愛がってくれたバアサンと同じぐらい、チェリーとの別れは名残惜しかったのですが、アメリカでこんな出会いがあるとは思いもしなかったのです。

 88年にNYにやってきた私は、ニューヨーク大学の寮に住んでいたのですが、寮費が高いのと、それまで都会のど真ん中に住んだことがなく、高いビルに囲まれ空のみえる面積が少ない生活環境に、ストレスを感じ始めました。そんなときに、友人から紹介されて、ホボーケンのあるアパートを訪れたのです。もともと3階一戸建ての家を、ワン・フロアーずつ分けた小さなアパートでしたが、安さと周りの建物が低く、空が広い環境が気に入って、年末に引っ越すことを決めました。そのアパートには、女帝のような雌ネコと、その息子がいました。3階の住人ウッディの飼いネコ、チャッピーとその息子ピーパーです。チャッピーは、いつも尻尾をピンと立て、ピーパーをお供に従え、部屋の入り口でなくと、どの部屋も入室自由、気の向いた部屋で寝るという、アパートの主のような存在でした。2階に入居した私のところへも、よく遊びに来ては、泊まっていく毎日が始まりました。チャッピーは、アメリカン・ショートヘアーと、シャム猫の混血。犬のように人なつっこい性格は、シャムの血の影響だそうです。この頃チャッピーは、すでに6歳、17匹の経産婦でした。どの子供も、チャッピー似で可愛らしく、すぐ里親が見つかったそうですが、ピーパーだけがブチャイクで、もらい手がつかず、手元に残ったそうです。チャッピーの生まれは、アリゾナ州フェニックス。82年のサンクス・ギヴィング・ホリディ(感謝祭、11月の第3週)に、ウッディのママが拾ってきて、それを貰い受けたそうです。いつも靴の中で丸くなって寝ている、それは可愛い子猫だったと、ウッディは言っていました。4歳までをフェニックスの一軒家で放し飼いに育ち、毎シーズン孕んでいたチャッピーは、ダンサーのウッディと、その妻のドッティの仕事の都合で、NYに出てきました。そのころのウッディは、南野陽子のプロモーション・ヴィデオの後ろで踊っているというお笑いな芸をかましています。生来の女癖の悪さから、妻のドッティは、ある朝、すべての荷物をまとめて出ていってしまいました。めぼしい物は、何もなくなった部屋で、チャッピー親子がニャ〜ニャ〜ないていたそうです。チャッピーはNYに来てから、最後のお産を経験し、ピーパーを生み、ついにフィックス(断種手術)されてしまいました。そのせいで、幼児退行し、さらに人なつっこくなったのです。

 89年の夏、ウッディは、何を逆上したかハワイに行って従兄弟と海の家をやる、と言いだし、NYをあとにしました。ピーパーは、当時ウッディが、よく連れてきていた何人かの女の一人に譲られ、溺愛していた息子を奪われたチャッピーは、半狂乱となってピーパーを探し回り、やっと諦めると、以後ウッディに心を許すことはなくなりました。チャッピー本人は、3階にウッディと同居していたマイケルに引き取られ、アパートの女帝の座をキープし続けたのです。このマイケルが、ほとんど女のところにいて、家に戻らず、深夜のアパートの階段に、おなかをすかしたチャッピーの声がドア越しに、響き渡るという日が続き、見かねた私が、引き取ることにしたのです。こうしてチャッピーは、私の娘になりました。

 秋風が吹く頃、ウッディがひょっこり帰ってきました。海の家計画は頓挫し、一夏ハワイで遊んでいたそうです。彼のいた部屋は、すでに後がまが住んでいたので、たまたまルーム・メイトが出ていった、私の部屋にはいることとなり、チャッピー2人パパ体制になったのです。もっともチャッピーが、ウッディを見る目は、息子を返せという非難の色が常にあったのです。ウッディは、女に手切れ金代わりにピーパーをやったらしく、ピーパーの様子を聞くこともできないと言っていました。三十路前半戦に突入していたウッディは、そのころダンサー生命をかけて、あらゆるミュージカルのオーディションを受けては、落ち続けているのでした。結局彼は、前もダンサーと兼業でやっていたモダン・ダンス・カンパニーの、マネージャー職に就き、12月にはチャッピーの冷たい視線を浴びながら、出ていきました。この年の年末、私は日本に一時帰国しました。その間、近所に住む、大学の後輩の、Nさんの家にチャッピーを預けました。この家には、ウニとトロという2匹のネコがいたのですが、私は、チャッピーの性格をなめていて、軽率なお願いをしてしまったのです。ピーパーと別れて以来、ずっと人間としか一緒にいなかったので、チャッピーは自分が人間であると大きな誤解をしていたのです。ところが、ほかのネコと一緒になると、その自我が崩れ落ち、大パニックを起こしたのでした。その戦禍は、チャッピーの牙が一本とれ、トロ君の耳の形が変わるということとなって顕れたのです。のちに、T夫妻のところで預かって貰ったとき(写真参照サガちゃんと)も騒動を起こし、そのときは部屋をほかのネコと別にするということで解決してもらい、居候の癖にと、私をいたく恐縮させたのですが、このときは、それが出来ず、結局チャッピーは、私が不在の誰もいないアパートに戻され、日に一度Nさんが、食事の世話をして遊んでもらうという、当然の罰を受けたのでした。チャッピーの気の強さには唖然とするばかりです。

 久しぶりに、日本で正月を過ごした私は、Nさんから事情を聞いて心配しながら、松がとれる頃ホボーケンに戻りました。アパートのドアを開け、電気をつけるとチャッピーが座っていて、視線がばっちり絡み合うと、ウニャウニャウニャウニャと泣き叫んで、飛びついてきました。そしてその日は、私から離れず、ベットでもぴったりと寄り添って、眠りにつきました。もうこの娘を一生はなすまいと、私は決意したのです。

 ウッディも出ていき、一人で家賃を払いきれなくなった私は、近所に住むインテリア・デザイナーのKさんの紹介で、駅にもっと近く、見晴らしのよいアパートの5階に引っ越しました。新しいアパートでは、さすがのチャッピーも、ビル全体の女帝の地位を築くことは出来ず、私の部屋の家主というポジションに落ち着きました。今度のルーム・メイトは、元ダンサーで、腰を痛めたため引退し、ハンター・カレッジに通いながら、先生を目指しているカリフォルニア出身のラッソーです。黒人で、見事に鍛え抜かれた肉体を持つ彼は、人当たりもよく、きわめてナイス・ガイという印象でした。入居した当初は、全部で5部屋あるこの家すべてに、チャッピーは出入り自由でしたが、そのうちに、毛が落ちると言われ、ラッソーの3部屋には、ネズミが出たとき以外は、出入り禁止にされてしまいました。そのころ私は、大学の卒業制作が始まっており、忙しさで体重は激減、家でチャッピーと過ごすのが唯一の憩いの時間でした。日本の大学でいろいろとあり、ほとんど居たたまれなくなって、アメリカに行ったような私でしたが、やっと四年制大卒になろうとしておりました。

 そして、やっと卒業。しかし、アメリカは、レーガン時代のイケイケのつけが回ってきて空前の大不況、さらに湾岸戦争も始まり、ちまたには失業者が溢れていたのです。小津安二郎の映画”大学は出たけれど”のような状況になってしまいました。写真界の求人をみる、もっとも手っ取り早い方法の、現像所の掲示板も、スタジオをたたんで田舎に帰るフォトグラファーが多いのか、スタジオ貸します、機材売りますが目立ち、アシスタント募集なんぞは、滅多に見かけることがありません。そんな状況下で、私は、広告写真家に転向すべく、日々、履歴書を各有名フォトグラファーのスタジオに送りつけては、却下されること50連敗という記録を樹立し悶々と過ごしていました。日本からの仕事も、若僧のくせに、著作権の問題等を、うるさく主張したため、また、本当のところは実力以上に背伸びをしていたことのボロも出始めて、はっきり言って干されていました。この状況で、日本に帰っても、まだ写真では食っていけず、結局、経理学校に放り込まれて、家業の跡を継がざるえなくなったら、とんだお笑いぐさだと、日々不安にさいなまされて、チャッピーとたわむる、というところでした。アパートの方も、ラッソーと、雲行きが怪しくなり始めました。これは、人種的、嗜好性の偏見ではないのですが、黒人、ダンサーとくると、かなり確率が高く、ラッソーはご多分にもれず、オ○マだったのです。この手の人は、まず異常な潔癖性。尾籠な話ですが、どうしても放尿のあとに、油断するとタイルに一滴二滴と垂らしてしまうことがあります。これを彼に発見されようものなら、トイレに引っ立てられ、雑巾がけの刑がまっていました。自分で言うのもなんですが、私は普通の男性の中では、整理整頓、掃除が、出来る方だと思うのですが、ラッソーの眼鏡には到底かなわなかったようです。毎週末になると、部屋中をブリーチで消毒し、昔の小学校のプールのようなにおいが漂っていました。私のところに、日本からの友人が時々訪れ、泊まって酒を飲んで騒ぐのもラッソーの逆鱗に触れ、ついにチャッピーだけでなく私も、彼のスペースであるキッチンに出入り禁止になり、自炊は不可能という、経済的に苦しいときに、さらに窮地に立たされることになってしまいました。結局、翌91年の3月には、駅から歩いて20分近くと、条件は悪かったのですが、とにかく安かった今のアパートに引っ越しました。

 今でこそ、アメリカのここ数年のバブルで、不動産が高騰し、このアパートでも、新入居だと$1,000ぐらいの家賃をとるので、大家もちゃんと管理していますが、当時は、これより下はあまりないという安アパートで、夏に水道管がもれて、廊下が水浸しになってもいっこうに直して貰えず、かつて弘明寺のボンボンと異名をとった私も、こんな貧民窟に落ちたかと悲しくなってきました。大家と不動産屋の手違いで、2LDKの部屋を、1LDKの家賃で借りられるというラッキーもあり、チャッピーはネコの分際で、一部屋を占拠しました。喧嘩をしたり、機嫌が悪いと、自分の寝室で不貞寝をするというのは、ほとんど古女房といった風情です。仕事は、ポツポツとフリーのアシスタントの仕事や、たまたま友人のルーム・メイトだった、NYの日本人コミュニティ雑誌OCSニュースの、広告営業担当のAさんの引きで、広告料未収金取り立て業者として雇われ、一時の窮状から脱し始めました。OCSでは、のちに当時の編集長の飯村昭子さんより、コンサート評のコラムを、拙いながら任されるようになり、借金取りだけでなく、ライター、フォトグラファーとしても、仕事を貰えるようになりました。日本の各社からも、少しずつですが仕事が来るようになり、今度は謙虚な(ほんとかいな)姿勢で臨むと決意。92年には、皆様のご協力で、ジャーナリスト・ヴィザが取得でき、アメリカでの生活もそれなりの安定を見せ始めました。その間、一時的にルーム・メイトがいたりもしましたが、基本的にはチャッピーと二人きり。チャッピーも幸せからか、ブリブリに太り始めました。年は、人間でいえば、更年期障害を越えた大おばさまといったところです。でも、私がたまにオネエチャンを拉致すると、嫉妬の炎をメラメラと燃やすという、若いところもまだ見せています。かつてのアパートの女帝から、ジャズ喫茶トキワの大ママへとポジションも変わりました。二枚目系のの私の友人が来ると、膝の上にべっとり張り付いてはなれず、その様子はまるで、しつこくお酌をする大年増のホステスです。チャッピーは、自分が可愛いという絶対の自信があり、人によってはネコ・アレルギーがあって、遠ざけられたりすると、どうしてこの人は、私の魅力が分からないの、バカなんじゃないという態度を、露骨に見せていました。出張仕事が多かったこの頃、私はよく女友達の家にチャッピーを預けました。「トキワさんの、ネコって可愛い。」から、ネコをとばして「トキワさんって、可愛い。」と言う方向に持っていこうとしていたのですが、やっぱり論理展開にかなりの無理があったようです。

 90年代も半ばに入り、チャッピーは今度は、大ママから、撮影と執筆活動で、やっと経営が軌道に乗り始めたトキワ写真事務所の社長の座に就任しました。事務所で、いつもにらみをきかせ、副社長兼それより下なしの私をこき使うのが彼女の仕事です。チャッピーは、病気知らずの健康体。ウッディも、注射はしてあるので、病院に連れていく必要はないと言っていたので、一度も行ってなかったのですが、そろそろ何があってもおかしくない年齢になってきたので、検診に連れていきました。当時すでに14歳。でも病院では、10歳よりも若い健康状態で”Good Job"と誉められました。しかし寄る年波には、かなわないのか、体重は落ち始め、目やに、耳垢が多くで始めました。きれいなストライブだった体の模様は、ベージュ一色となり、綿菓子のようにふわふわしていた毛も、しぼんでしまいました。いつも水を欲しがるようになり、ご飯皿のところにある水では満足せず、トイレの流しに上り、私が水道をひねるまで動かないという、だだをこねます。最初の頃は、床から直接流しにジャンプしていたのですが、そのうち、バスタブに一度上りそこから上がり直すように、なってしまいました。私の生活が安定を見せるとともに、チャッピーも緩やかに年を重ね始めました。私自身30代に入り、夜飲み歩くよりも、家で自分の食べたい物でもつくって、まったり過ごす時間が必要となり、チャッピーとの時間も、まるで長年連れ添った老夫婦のような密度で、穏やかに過ぎていったのです。私は、チャッピーは25歳ぐらいまでは、頑張ってくれると思っていました。日本の友人達も、トキワは、チャッピーに何かがあったら、日本に引き揚げてくるだろうと、まことしやかに囁いていたのでした。

 2000年になっても、私たち2人の間には、大きな変化はありませんでした。しかし、老いは確実にチャッピーに忍び寄っていたのです。カウント・ダウンも、これからも出来るだけ長く、ともに過ごせることを祈って、直前に壊れて色が映らなくなった白黒テレビで見ました。そして運命の2月。ヴァレンタイン・ディを過ぎたあたりから、尻尾を追いかけてぐるぐる回り、痙攣しているという不可解な行動を、チャッピーは見せ始めました。これはちょっと怖いと思い、病院に行くにしても、専門用語が並ぶと何を言われているのか、まったく分からないので、たまたま日本で獣医をしている友人の弟さんにメールで問い合わせて、予習をしてから連れていくことにしました。前年の秋に受けた定期検診でも、きわめて健康といわれていたので、状況を少し軽く考えていたことは、否めません。18日の夜、突然起きあがったチャッピーは、走り出し、何度も壁に激突し、倒れて痙攣しているということが起きました。取りあえずは収まったのですが、これはエライこっちゃと思い早速、獣医さんにメールを書こうとしました。19日は、土曜日で、私はコンサート取材があったため、あけた月曜日に病院に行こうと思い、メールを書きかけ出かけようとしました。しかしそのメールは、ついに送られることはなかったのです。出がけに、チャッピーは珍しくついてきて、自分も一緒に外に出たそうな素振りを見せて、なきました。この日も朝から、元気がなく心配だったのです。撮影中もチャッピーのことが気になり、どうも集中力が上がりません。コンサートのあと、久しぶりに会う友人と食事をして、飲みにも誘われたのですが、胸騒ぎがして断りました。そして、家につくと、入り口のオーディオ・セットの前に、チャッピーは倒れていました。まだ、暖かかったのですが、すでにこときれ、私は、呆然と立ちつくしたのです。17歳と、3ヶ月目のことでした。週明けの月曜日、チャッピーの野辺送りをしました。悲しいぐらい晴れた日です。2週間後に、小さな缶にはいって帰ってきました。アメリカでは、火葬の火が強く、骨は形を残さず灰になってしまったのです。私は、この灰を3つに分け、一つを、ともに11年を過ごしたホボーケンの、マンハッタンが見渡せるスティーヴンスの丘の木の下に、埋葬しました。ウッディにも渡し、生まれ故郷のフェニックスの家の裏庭にも、帰してあげたのです。そして残りは、私の家の日当たりのよい、スピーカーの上にいます。トキワ写真事務所の社長の座もいまだ空席。これからもずっと一緒にいようと思っています。

 天才アラーキーは、チロはA(アラーキー)の愛人生、と語っています。トキワにとっても、、チャッピーはTの愛人生です。