週刊ポスト 2001年36、37号より抜粋、補足

米国同時多発テロ、ワールド・トレード・センター崩壊

 2001年9月11日、この日は私にとっても、一生忘れることの出来ない日になるでしょう。今まで、当たり前のように、風景の一部だったものが、6000人余りの、多くの人命とともに、忽然と姿を消してしまいました。世の中、何が起こるか分からない、という言い古された言葉がこれほど実感を持ったことはありませんでした。

 11日の午前9時過ぎ、私は、まだ休んでいました。前日の10日夜、ワールド・トレード・センターにほど近いトライベッカ地区にあり、ここ2年ほどお気に入りであったにもかかわらず、その週いっぱいで店を閉じることになった、クラブ"Wetlands Preserve"に、DJロジック率いる、"Project Logic"を聴きに行き、このクラブとの別れを惜しみ、午前4時にベッドについたため、まだ目覚めていなかったのです。東京の小学館写真室からの電話が鳴り、「トキワさん、たしかNYでしたよね。ワールド・トレード・センターに、飛行機が衝突しました。これから写真を撮ってすぐ電送して貰えませんか?」という依頼を受けました。寝ぼけていた私は、いつもの事ながら、また急な話だなあ、と思いながら、「今日は午後から撮影が入っているので、それまでに終わるぐらいなら、何とかしますよ。」などと、のんきな答えをしながら、状況を把握するためTVをつけ、愕然としました。あのツイン・タワーに火災が起き、黒煙を吹き上げているではありませんか。アナウンスを聴いていると、ハイジャックされた旅客機が、突入したテロであると言っています。マンハッタンに入る交通も、すべて遮断されたと発表があり、やっと事態の重大さが認識できた私は、この撮影の仕事を受けることにしました。あたふたと、機材の準備をしていると、実家から安否を気遣う電話がかかってきて、くれぐれも危険なところには近づかないようにと、心配されました。とにもかくにも、デジカメと望遠レンズを担いで、ハドソン川岸に行くとそこには、まぎれもなくTVで見たままの、黒煙を吹き上げたワールド・トレード・センターが、ありました。私も、趣味でカメラをいじり始めた頃を入れると、かれこれ20年近く写真を撮っておりますが、これだけ目の前で起きていることに、リアリティを感じられなかったのは初めての体験でした。川岸には、多くの人々が、呆然と立ちつくしています。私の住んでいる、ニュージャージー州ホボーケンは、ちょうどマンハッタンのダウンタウンの対岸に位置し、地下鉄やフェリーも充実していて、多くの人がワールド・トレード・センター・エリアに通勤しています。出勤した家族と連絡が取れないのか、泣き崩れている女性もいました。まだハイジャックされた旅客機の数が完全に割り出されていなく、さらに攻撃がある可能性からか、川岸にもポリス・ラインが引かれ、移動を余儀なくされました。その時、ノース・タワーが崩れ落ち、ダウンタウン・エリアは、凄まじい煙と粉塵に覆われ、見えなくなってしまいました。その時、私は一ヶ月ほど前にウェッブで、ホボーケンの街紹介でも作ろうと思って撮影しておいた、夕焼けに映えるワールド・トレード・センターの写真があることを思い出したのです。今この様子を、同じアングルで撮影しておけば、その被害の凄さが伝わるのではないかと思い、スティーヴンス工科大の、丘の上の展望台に急ぎました。そこには、悪夢のような風景が、パノラマで拡がっていました。

 今から13年前、私はここからみえる風景が気に入って、ホボーケンに引っ越してきたのですが、ダウンタウンの景観は、まるで軍艦の艦橋部のようだった、2つのビルが煙で覆われ、変わり果てていたのです。スティーヴンスの丘も、警官が来て退去を求められました。撮影を終え、写真電送のために急いで帰宅し、パソコンに画像を転送すると、やはりまぎれもなくあの光景が、モニターにあらわれます。しかしこれは、フォトショップで合成したものではなく、現実に写し取ってきたものなのです。TVをつけると、火災が起きたペンタゴンの様子も映し出され、アナウンサーも動揺を隠さずに、中継をしています。自分の身近なところで、戦争に近い状況が起きるというのは、こういうことなのかと、おぼろげながら認識し始めました。Eメールをあけると、日本の友人達から、お見舞いのメールがたくさん入っていました。ウェッブにも、安否を気遣う書き込みをいただき、改めて今、自分は大変な状況にいることを把握しました。午後のレコーディングの撮影のコーディネーターさんからも連絡があり、スタジオがブルックリンなので、今日は中止という通達がありました。我が家のまわりにも、マンハッタンから運び込まれてきたのか、救急車が行き交います。携帯も普通の電話ラインも、受けることは出来ますが、こちらからは、ほとんどつながりません。週刊ポストの編集者から電話があり、取りあえず状況を説明、写真は、あと一時間以内で着く旨を報告し、デジタル・ファイルを作り、20カットぐらいの写真を送りました。この日、週刊ポスト編集部は、校了が終わり、そろそろ引き上げようかというときに、この事件が勃発し、印刷所を待たせて、記事の大幅差し替えで、大パニックになったそうです。電送を終えてしばらくすると、小学館の写真室から、無事受け取りました、お疲れさまですと、Eメールで連絡があり、一段落。私は、茫然自失ながらTVを見ていました。にわか報道カメラマンとしての、業務の第一段階は取りあえず終了しました。被写体を前にして動揺はしましたが、それによってミスをするということは、ありません。しかし、私の視点を、あたかもこれが真実のすべてといったような見せ方をする、報道系の仕事は今まで避けてきたので、考えられないような現実を目の当たりにして、圧倒されたという感はありました。TVでは、ブッシュが次なるテロを恐れて、全米中を大統領専用機で逃げ回っている様子。この大変なときに、なぜに大統領がブッシュなのかと、昨年の大統領選挙のフロリダでのうやむやが悔やまれます。日本からの友人のメールにもありましたが、軍産複合体の利益代表で、本来せいぜいテキサス州知事止まりの、地方政治家の器のブッシュは、戦争を始めるだろうな、という不安がよぎりました。何度も旅客機突入の瞬間を映し、パールハーバーだ、カミカゼだというTVのコメントにも、腹立たしいものを覚えました。夜になり、やっとホワイト・ハウスに戻ったブッシュは、このテロを戦争と規定し、重要容疑者であるイスラム原理主義者、ウサマ・ビンラディンの全力捜査を宣言したのでした。

 翌日、地下鉄が現場近く以外では動き始めたようなので、前日キャンセルになったレコーディングを、決行することになりました。14 Stでおり、地上を歩いて乗換駅のユニオン・スクエアへ向かうと、街はTVの放送のとおり14 Stから南には、関係車両しか進入を許可しておらず、警察官、軍人があふれ戒厳令というのは、こういう状態をいうのかと、実感しました。現場から、2キロ以上は離れているこのエリアにも、火事場の焦げた臭いと、のどが痛くなるような粉塵が舞っています。ブルックリンに通じる地下鉄は、ダウンタウンを通り抜けて行きますが、もちろん駅は閉鎖されています。車内から見るワールド・トレード・センターちかくの、フルトン・ストリート駅や、ウォール・ストリート駅は、地下にもかかわらず、真っ白な灰が積もり、ゴースト・タウンの駅のようです。その日のレコーディング・エンジニアのマイケル氏は、こんな日に、こんなことをしていてよいのだろうかとも思ったが、何もしないでTVを見ていても、自分にはボランティアや何か出来ることはないのかと、無力感にさいなまされるので、スタジオで普段どおりの仕事をこなしているのが、一番落ち着くと言っていました。私も、全く同感です。撮影は、思ったよりも早く終了し、帰りはマンハッタン・ブリッジを渡る地下鉄の乗りました。夕焼けの中にもうもうと立ちこめる煙と、消えてしまったワールド・トレード・センターの風景が、私を現実に呼び戻したのです。テスト現像を、いつもは夜12時まであけているラボに出しに行くと、しばらくは8時半で閉めると言っています。(一週間ほどで、平常営業に復帰)インド、パキスタン系の従業員の多いNYのラボ業界ですが、アラブ系と間違えられて、嫌がらせをされることを避けた緊急処置で、実際、彼らは身の危険を感じることが、あったようです。夜、家に帰ると、また小学館より電話があり、別の週刊誌から撮影のほかに、新聞、TVニュースのチェックの依頼も受けました。

  あけて木曜日、私は、前日の夜も感じた不気味な戒厳令下の様子を撮影すべく、昼間に同じダウンタウン、といってもワールド・トレード・センターより北に位置する、ビレッジ・エリアへ出かけました。その日の新聞にも、困難を極める救助活動の記事が大きくでていましたが、そのような写真は通信社に任せ、私は普通に生活している庶民の視点で、見えるもの、感じられるものを撮影しようと思ったのです。この非常事態にあったって、NYのルドルフ・ジュリアーニ市長は、抜群の指導力を発揮して、警察、消防、関係部署を指揮、ワシントンとの交渉などを的確にこなしています。戦争を煽るようなことばかり、発言している大統領とは対照的で、11月での任期終了が惜しまれます。
 前日と同じように、14 Stで地下鉄を降り、ラボに向かいました。途中で中断してしまった、ファッション・イベントのNYコレクションを撮影しているフォトグラファーに混じって、報道系のフォトグラファーが、砂煙の中に浮かび上がる消防隊員の写真を、編集していました。ミュージシャンのプロモ用ポートレイトなどという、天下太平なものをチェックしているのは、私ぐらいです。もしも、戦争になり泥沼化したら、音楽だ、芸術だなどと言ってられないご時世になるのかと、漠然とした不安に襲われました。
 すぐ近くのユニオン・スクエアへ行くと、多くの人が集まりキャンドルをともし、祈りを捧げています。事件後2日にして、早くもいろいろなモニュメントが並び、そのまわりを、花、キャンドル、メッセージ・カード、行方不明者の情報提供を求めるビラ、そして星条旗が飾られています。人垣の中に、美しい声で愛国歌"America the beautiful"を歌う女性がいて、一段と厳粛な雰囲気に包まれます。多くの人々も私と同様に、現実を受け入れるのに、ある程度の時間を要したように思われます。そして失われた多くの人命と、資本主義が最終的に行き着いた地点NYの、シンボルである2つの巨大な塔を、悼む行動に駆り立てられたのでしょう。家族や、親しい人を亡くして、慟哭する人もいました。私も、ホボーケンに引っ越した頃、半年ほど同居していたKさんが、富士銀行に現地採用で勤めていたはずで、連絡がつかないのが、気がかりでした。彼とは、その日の夜に、やっと電話が通じ無事を確認。なんと2ヶ月前に、上司との折り合いが悪くて辞めていたので、当日はワールド・トレード・センターのオフィスには、いなかったそうです。しかし、多くの元同僚が亡くなり、ショックを受けているとのことでした。TVの日本語放送のニュースでも、富士銀行のオフィスからは多くの犠牲者がでたと、言っておりますが、発表されているのは日本からの駐在員の安否だけで、さらに多い人数がいる現地採用社員の安否は発表されていないという、区別と言うか、差別がまかり通っているそうです。アメリカ人の社員に関しても当然ですが、現地採用の社員にも、もちろん心配している家族はいるわけで、この様なことが平然と出来る企業の倫理は、大いに糾弾されるべきことと思います。実際、助かった社員の中でも、駐在員と現地採用社員の間には、大きな待遇格差があったようです。
 ユニオン・スクエアをあとにした私は、徒歩で入れるところまで行くことにしました。事件当日から引き続き、14 St以南は、一般車両の通行は禁止されており、パトカー、消防車、救急車、軍用車、一部テレビ局の放送車だけが、走っています。風向きによって、きな臭いにおいが流れ、マスクをしていないと喉を痛めるくらい粉塵が舞っています。ワシントン・スクエア近辺は、いつもの平日の午後は、学生や観光客で溢れているのですが、この日は人通りもいつもの半分以下です。いくつかのデリや、カフェ、レストランは、営業を再開しており、ジャズ・クラブも金曜の夜より再開と、告知を貼り出しています。時折、犬の散歩や、ジョギングをしている人たちとすれ違います。確実にいつもの生活に戻っている人もいるのだと、妙に感心しました。6 thアヴェニューにでて、南に向かうと、そこにはいつも方角の目印のようにそびえ立っていた、ワールド・トレード・センターが消え去り、煙だけが立ち上っています。ソーホーと、ビレッジの境界線ハウストン・ストリートに出ると、そこからはさらに厳しい検問がひかれていました。どこからか入れないものかと、東へ移動しましたが、すべての通りに警察官が立ち、南へ入ろうとする人の住所確認をして、住人以外の立ち入りを制限しています。ここ数年の好景気で、ギャラリー街から、ブランド・ショッピング・センターに変わったソーホーもこの日は、人影がまばらです。さらに南の中華街があるキャナル・ストリートから南には、進入禁止とのことです。警察の認可を受けたプレス・パスでないと、通行が出来そうもありません。私がもっているのは、NYの海外特派員協会発行のもので、身分証明にはなっても、それ以上の効力は、あまりないのです。本来、報道カメラマンでもないのに、ごり押しをして中にはいるのも、本意ではないと判断し、その日は、ハウストン・ストリートまでで、引き上げることにしました。前日の夜のブッシュ大統領の演説が、早くもポスターとなり配られています。金曜日を国を挙げての追悼日とすること、アメリカが事実上戦時下ににあることと、必ず報復をすると宣言した内容は、国民の絶大な支持を得たようです。もちろん、アメリカが本土の中枢部に、攻撃を受けたことは初めてであり、またこれだけの犠牲者を出して、何も制裁を加えないでは、世論は済まないでしょうし、国際的な威信に関わり、またテロを誘発する恐れもあると思います。しかし、TVを見ていると、どのチャンネルもほとんど同じ内容で、"America on Attack"と題して旅客機突入のシーンが映し出され、救助活動が困難をきわめる現場、事故直後にビル内から最後の電話をかけてきた家族のエピソード、ワシントンからの中継、そしてまたあのショッキングなシーンと続きます。最重要容疑者を隠匿しているといわれ、報復が行われれば必ず巻き添えになるアフガニスタンの民衆の悲惨な状況は報道されず、事件直後に盛大なパレードを行ったいわれるパレスチナ人達の映像は、実は全く別の時のものであるという説まで流れました。イスラム世界との関わりを解説するのも、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破や、駆逐艦が人間魚雷に攻撃されたことなど、あまりに一方的で、国民の戦争支持を取り付けるために、明らかな情報操作が行われていました。新聞は、テロリスト達の正体をスキャンダラスに書き立てます。私が、書物の中でしか読んだことのない、第二次大戦直前の日本やドイツ、パールハーバーをきっかけに第二次大戦に参戦したアメリカでも、この様な操作が行われ、国民を戦争に駆り立てていったのかと、不気味に思えました。実際に、20歳そこそこぐらいの若い連中には、軍に志願して(アメリカは現在は志願兵制です)アフガンに行きこの復讐をするのだと、真顔で言っているのがいます。1940年代よりも、情報ソースが豊富な現代ですら、この様な洗脳が可能なのです。アメリカは合州国であると同時に、合衆国であり、文化、人種的背景が異なる国民の唯一の共通項が、星条旗であり、今回のような異常事態に直面すると、星条旗の元でで国歌や愛国歌を歌うことが、すべてを越えて一体化することを可能にします。それは、素晴らしいことですが、、これを利用すれば驚くほど、簡単にプロパガンダを行うことが出来ることを、認識させられました。もちろん、報復攻撃を疑問視する意見は、たしかに存在しました。全国民の85%が戦争を支持したと伝えられますが、私のまわりなどは、懐疑的な声が多かったのです。しかし、そのような意見がメディアに登場するのが許されたのは、一週間以上過ぎてからのことでした。

 その週は、新聞、ニュースの情報収集、翻訳が忙しくなり、本来、写真家の私が、そのために撮影に行けないという本末転倒な事態になりました。金曜日のワシントンでの合同追悼イベントのあとから、TVのタイトルは、"America on Attack"から、"America Rising"へとかわり、再建へ邁進しようという、ポジティヴのな姿勢に変わってきたのです。ボランティアや献血にたくさんの人が詰めかけ、寄付や救援物資が、猛烈な勢いで集まるのを見ていると、この国の民衆の底力を感じます。日曜日に、奇跡の生還談や、悲劇的な最後のような談話をまとめたデータ原稿を入稿した私は、その夜、平常態勢に戻りつつある、ミッド・タウンのクラブ"B.B.King"で、私が今、注目している8弦ギタリスト、チャーリー・ハンターと、ドラマーのスタントン・ムーアらのユニット"ガラージ・ア・トロア"を聴きました。このイベントを仕切ったのは、ソウライヴらのマネージメントも手がけるヴェロア・レコーディングスでした。ワールド・トレード・センターにほど近い、トライベッカ地区にオフィス、スタジオを構える彼らも、今回の影響で、オフィスに立ち入りが出来なくなり、打撃を受けたそうです。ほとんどのクラブで閑古鳥が鳴いている中、この日の"B.B.King"には、多くの聴衆が詰めかけました。拍子抜けがするぐらいに、一切の政治的発言はなかったのですが、現実逃避なのか、マリファナ吸って踊り狂っている連中にも、疑問符をぬぐえません。
 ジュリアーニ市長が、高らかに日常復帰を宣言した月曜日が来ました。いつしかグランド・ゼロと呼ばれるようになった、事件現場のすぐ近くのNY証券取引所も再開し、閉鎖地域の多くも、開放されました。私は、この日、日本から来た小学館のカメラマン2人と手分けして撮影をし、多くの被害者が入院し、自然とその病院の前の壁に、多くの行方不明者探索のビラが貼られ、"Wall of Prayer"と名付けられたベルビュー病院前、反戦のメッセージを送り続けて倒れた、ジョン・レノンを記念したセントラル・パーク内のストロベリー・フィールド、そして多くの犠牲者を出した、マンハッタン内の消防署を担当しました。"Wall of Prayr"の前に立つと、全く普通に生活していた人々の人生が、あまりに悲劇的に突然、断ち切られたことの恐ろしさを、とことん認識できます。この様なことが自分に起きても、何らおかしくなかったという恐怖と、生きているということの、裏側にはこういう死が潜んでいることを、実感します。いかなる政治的理由があろうとも、絶対に許されな残虐行為であることは、明白です。よって、その行為に政治的意図で、報復をすることも、新たな犠牲者をふやすだけで無意味である。という冷静な判断を求めて、ストロベリー・フィールドへ向かいましたが、事件後、一週間と経っていないこの時では、まだ生傷が乾いておらず、この様な考えは、マイナリティーであったようです。
 マンハッタンのいたるところにある消防署の前には、殉職者の写真が飾られ、お花やカード、キャンドルが供えられています。13 Stの消防署では、現場に駆けつけた25人の隊員で、12人が帰らぬ人となりました。全体で300人以上の犠牲者が確認されています。ノース・タワー崩落直後に、救急医師がハンディカムで、砂煙に飲み込まれていく様を車の陰に隠れて、撮影したビデオが、何度も放映されました。日本でも放映されたので、ご覧になった方もいるかと思いますが、砂煙の中からけが人を担いだ消防隊員が、浮かび上がってくる状況で、常にさほどボリュームの大きくないアラーム音が、不気味に響き渡っています。これが何の音なのか、疑問に思っていたのが、やっと解けました。消防服には、ある程度の時間動かないと意識を失った、もしくは動けなくなったと判断し、近くにいる同僚にそのことを知らせるための、自動のアラーム発信器が取り付けてあるそうです。つまり、あの崩落現場で、多くの消防隊員が倒れていた音だったのです。誰もが、あのようにあっけなくツイン・タワーが崩壊するとは、思いません。私も、対岸からその瞬間を見たときは、はっきりいって何が起きたのか理解できず、思考停止に近い状態になっていましたが、その中で、これだけ多くの人が2次災害に巻き込まれていたとは、想像だにしませんでした。救助活動者が出した被害では、警察関係の100人以上を含めると、近年まれにみる規模でしょう。警察官のように、日頃、権力を振りかざすことはなく、しかし、この様なときに真っ先に危険な現場に駆けつける消防隊員に、改めて畏敬の念をおぼえました。

 悪夢の事件から10日あまりが過ぎ、私の生活もやっと平常を取り戻し始めました。TVニュースや、新聞等のプロパガンダ氾濫からも、少し距離を置いたので精神的な安定も取り戻してきたのでしょう。一週間後ぐらいから発行された、写真をメインにした雑誌を集めました。そこに写っている写真は、時間の流れとともに消えてしまうTVニュースとは、異なった強烈なインパクトを放っています。写真のもつ可能性、力の凄さ、怖さを、久しぶりに実感しました。 ブッシュは、「テロリスト達は、アメリカの理念、自由が憎いのだ。」という唖然とするような、演説をしています。そのブッシュの支持率が、90%にとどこうかという状況を見ていると、この国は、一体どうなっているのだろうと、また疑問をもちます。もちろん、これらの支持層の大部分は、おそらくアメリカの地方で、世界情勢とのリンクを実感しないで暮らしている人々であり、コントロールされたメディアが流す、グランド・ゼロやペンタゴンの惨状と、極悪非道のテロリストというイメージが大きく作用しているのでしょう。もちろん、私はテロリストを弁護するつもりは毛頭ないですし、テロリズムは許すべからず卑劣な行為であるというのは、今回の取材でも確信に至りました。しかし、いったいアメリカ人の何パーセントが、イスラム過激派との間の軋轢の歴史、アメリカのイスラエルよりの中東政策、湾岸戦争後処理問題等を、どの程度、認識しているのかは興味が持たれます。欧米社会が長い年月をかけて培ってきた、論理的、合理的な思考と、ベーシックなところに流れるキリスト教的価値観は、けっして世界共通の方法論ではなく、それを国力の差をもとに押しつけ、軋轢の沸点が極限まで達し、一部狂信的な人々の発作的行動で起きたのが、今回の事件と言えましょう。マルコムXは、過激派から転向し、イスラム教に帰依しメッカ巡礼を終え帰国したあとから、暗殺されるまでの短い期間、様々な文化、人種背景をもつ人々が、お互いを尊重し、ある程度の不干渉をもとに、棲み分けて共存する平和思想に至っています。音楽の世界では、オーネット・コールマンがこの理論を、応用したハーモロディクス理論を構築しました。私が実際、目の当たりにした、4年前の'Civilization?"というコンサート・シリーズでは、見事に体現し、音楽上であらゆる文化が共存可能であることを証明してみせました。音楽と、国際政治力学では次元が違う問題でしょう。アメリカや、ヨーロッパ諸国、そして日本、韓国らアメリカ・サイドにたつアジア諸国による報復は、やむえない行動でしょうが、これで果たして、テロリズムを根絶できるのかは、私が言うまでもなく難しい問題です。今後の世界情勢は、これからの数ヶ月で大きく変わってくるのは確実ですし、それは直接、私たちの生活に、大きな影を落とします。そのとき、アメリカで、どのようなことが起きるのかを、見届けていたいと思っています。(10/4/2001)

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