On the Waterfront ~ 波止場 Hoboken, New Jersey

 約9ヶ月前、このウェッブ・サイトを立ち上げたときに、早いうちに、私がアメリカにきてから、13年にわたって住み続けている街、ニュー・ジャージー州のホボーケンについて書こうと思っていました。夏の間、古い写真を整理したり、また新たに必要な写真を撮り足したりしていたのですが、いよいよ、書いてアップ・ロードしようと思っていた矢先に、9月11日の同時多発テロが起き、お気楽な記事を書いているような場合ではない、現実に圧倒されてしまいました。実際、夏の間にとった風景写真が、定点観測となって、ワールド・トレード・センターの在りし日と、崩壊の瞬間の写真が、週刊ポストに掲載され、私も、この写真を撮影したときに、こんな使われ方をするとは、夢にも思いませんでした。詳しくは、同時多発テロについて書いたページを参照していただくと分かりやすいですが、ある意味、私の写真家としての価値観を根底から揺るがす、経験でした。あれから、半年が経ち、ワールド・トレード・センターの跡地である、グラウンド・ゼロも、だいぶ片づきました。もっとも、オサマ・ビン・ラディンの行方は、今だ分からず、炭疽菌事件に関する結論も、何も国民には明らかにされないままですが、政府の情報操作の甲斐もあってか、NYは平常をおおかた取り戻した感があります。私も、昨秋ぐらいは、ラッシュ時には、ロックフェラー・センターや、大きなターミナル駅、トンネルの通行、地下鉄乗車は避けて、少しでも安全を確保しようとしていたのですが、いつしか、そのような意識も薄れてきました。そのような状況の変化から、やっと、ホボーケンへのオマージュを書こうという心境になりました。もちろん、こうしたことの裏側には、何ら解決していない現実があるのですが、楽しんで、お読みいただければ幸いです。

 私が、マンハッタンにある大学の寮から、ホボーケンに引っ越した経緯は、ネコのチャッピーとのエピソードにも、詳しく書いていますが、88年の秋口に、たまたま同じ寮にいた日本人の女性から、友人のアメリカ人がホボーケンで、ルームメイトを捜しているときき、様子を見に行ったら、家賃の安さとともに、スティーヴンス工科大の丘から見えるマンハッタンの景色や、高い建物が少なく、NYCに比べて静かな環境が気に入って決めました。その時は、まさか、それから13年も住み続けることになるとは、思いもしなかったのです。
 ホボーケンは、1マイル(1.6キロ)四方の小さな市で、ニュージャージー州ハドソン郡に属します。マンハッタンへのアクセスは、パス・トレインという地下鉄か、バスでおおよそ20分から30分ぐらいの所に位置しており、居住者は、NYCで仕事を持つ人か、スティーヴンス工科大学の学生、スタッフ関係者が、多いと思われます。9/11のテロでも、多くの犠牲者を出しました。

 かつてマンハッタンへの橋や、トンネルがなかった頃。ホボーケンは、ペンシルベニア州や、ニュージャージ州から、NYCに入るフェリーのターミナル港として栄えました。現在も、ニュージャージーのローカルや、ペンシルベニアからの電車の終着点として、ホボーケン駅は、かつての姿をとどめています。プラット・ホームの多い駅構内や、クラッシックな作りの巨大な待合室は、往時を思わせる重厚な作りで、90年代に大改修が行われ、指定史跡としても保存されており、多くの映画やCMフィルムにも登場しています。現在も、通勤用のフェリーが駅から接続していますが、このフェリーに夕暮れ時に乗ると、通勤客とは反対方向なのですいていて、遠巻きに暮れなずむマンハッタンの夜景の中に、吸い込まれていき、自分もその一部になるという20分ほどの体験が、たった$2.00でボートをチャーターした気分を味わえます。

 1900年代のホボーケンは、交通の要衝としてだけではなく、W. & A. フレッチャー・カンパニー、ベツレヘム・スティールの造船所や、マクスウェル・コーヒー、リプトン紅茶の東海岸の重要拠点としても、多くの人たちが暮らしていました。そのころのホボーケンを描いた映画に1954年のエリカ・カザン監督の”波止場(原題"On the Waterfront")”があります。若手スターで売り出し中だったマーロン・ブランドが主演で、港湾労働者たちと、その元締めのマフィアの抗争を描いています。ブランドは、ボクサー崩れのチンピラながら、鳩を飼うという優しい一面を持つ男として描かれており、最後にはマフィアを裏切りボコボコにされるというヒロイックな役どころです。私のアパートの窓から見える屋上でも鳩を飼う人を見ますが、この映画の舞台となった港湾は、マクスウェル・コーヒーも、リプトン紅茶も撤退してしまったので、すっかり変わってしまいました。ブランドやそのガールフレンドが住んでいるアパートの前の石畳の細い道は、今も残っています。また、波止場を見下ろすエリシアン・パークも映画の中で何度も出てきて、今も全く変わっていませんが、教会は公園の前ではなく別の所にあるものをフィルム上でつないでいるようです。この頃に栄えていた河岸部は、各社撤退のあと80年代から90年代の始めにかけては放置されており、私が引っ越してきたころにも、放置された木製の建築物の桟橋が崩壊するというようなことも起きていました。住民投票による再開発か、否かという論議が長引いたためですが、やっと90年代に入って結論が出たようで、再開発が始まりました。日本人の感覚で考えると、こんなにNYに近いところを10年近く放置しておくなどとは、理解不能なのですが、地元に長く居住している人にとっては、再開発をして人が増えると、治安が悪くなったり物価が上昇したりと、必ずしもよいことばかりではないのでしょう。再開発が始まると、折からの未曾有の好景気も追い風となり、ウォーターフロントには、工場を改装したロフトや、新築の高級コンドミニアムが建設され、川沿いや旧桟橋も公園として整備されました。かつて工場しかなくて、必ずしも環境がよくはなかったアップタウン部も、ラッシュ時にはフェリーで直接繋がるようになり、高級スーパーマーケットやショッピング街、はたまたホボーケンの歴史博物館まで出来ました。80年代の終わりから比べると、本当にドラスティックな変化が、この5年ぐらいに見られました。今から、10年ぐらい前は、NYに長く住んでいる人によると、ホボーケンは建物も低く、ちょうど3、40年ほど前のNYに雰囲気が似ているために、よく映画や、TVドラマのロケーションに使われているようです。ただ、街の風景が明らかにNYと違うものがあります。それは、無計画に所狭しと張り巡らされた、電線とテレビ・ケーブルです。NYでは、すべてのケーブルは地下に移されていて地上はすっきりしているのですが、ホボーケンは、まるで日本の街のように、露出しているのです。私の所に遊びに来る友人も、なんか風景が違うと、最初に違和感を覚えるようですが、なかなか気がつかず、指摘すると、やっと納得する人が多いようです。ある意味、日本に似ていて、ホッとするのかもしれません。マグナムのフォト・ジャーナリスト、エリオット・アーウィットの50年代のホボーケンで撮影された写真の中にも、貧しいイタリア系移民街のアパートの窓から、所狭しと万国旗のように干されている洗濯物のスナップが、あります。今は、そこまでひどくはなくても、まだ洗濯物の旗が掲揚されているところを、私のアパートの裏窓からも見ます。こんな所も、日本を思い出させます。

 ホボーケンの住人の人種構成を見ますと、もともとはドイツ系が多かったそうですが、1800年代の終わりから、イタリア系とアイルランド系が圧倒的に増えてきました。港湾労働に従事する人々が集まった結果でしょう。この階層の人々の増加とともに、街角の至るところに、日本でいうところの居酒屋のようなアイリッシュ・バーが増え、ホボーケンは、いまだ人口に対して、酒類販売許可証の発行枚数が一番多いという、呑んベエにとっては目の毒なエリアになっています。そんなイタリア系移民のホボーケン出身者を代表するスターといったら、ニュージャージーが生み出した3大シンガーの一人、フランク・シナトラでしょう。ちなみに、あとの2人は、ニューアーク出身のサラ・ボーン、アズベリー・パーク出身のブルース・スプリングスティーンです。もう少し時代が下ると、ジョン・ボン・ジョヴィを加えて、4大シンガーともいうようです。1915年12月12日に、イタリア系居住区のモンロー・ストリートで、当時ボクサーのイタリア系の父(引退後、消防士として長年活躍)と、のちにバー経営や政治運動で、やり手ぶりを発揮するアイルランド系の母の間に、生まれたフランク・シナトラは、30年代半ば過ぎから、ハリー・ジェイムスや、トミー・ドーシィーのビッグバンドの専属ヴォーカリストとなり、全米のスターへの階段を駆け上る直前まで、ホボーケンで暮らし、多くのローカル・ギグをこなしています。当時のシナトラは、都市部の白人のブルー・カラーから生み出された、最初の大スターという地位を築きました。70年代にやはりニュージャージーの、ブルー・カラーの日常生活を歌って支持を集め、レーガン政権とともに右翼的な展開をしていった、ブルース・スプリングスティーンの先駆者ということが出来るかもしれません。私の家から3ブロックほどの所にある、セイント・アン教会は、毎年夏にイタリア縁日をやるのですが、シナトラが初めて公の場で歌を披露したデビュー記念地だそうです。1984年には、夏の縁日になんとレーガン大統領を連れて、現れました。これは、もしもなんかの間違いで大成功してしまった私が、地元の弘明寺の縁日に、総理大臣を連れて現れてしまったようなものでしょうか?1947年には、シナトラはホボーケンの名誉市民に選ばれたり、その誕生日が市の祝日に指定されたりしているにもかかわらず、時折「出身地は、New York, NY(ようするにマンハッタン)。」などとコメントしているのも、まるで埼玉の東京に近い地域の出身者が、東京出身ととぼけているようで、微笑ましさを感じます。98年の5月15日に亡くなると、ご当地ホボーケンにもアメリカの3大ネットワーク・テレビ局が押し寄せ、この静かな街も一日だけ騒然とし、追悼ムードに包まれました。その長いキャリアの中で、マフィアとの関わりなどが、いろいろと取り沙汰されましたが、地元の誇りであり、希望の星であることは、まぎれもない事実のようです。

 写真家として、忘れてはならないのは、エドワード・スタインケンと並ぶ、アメリカ近代写真の父、アルフレッド・スティーグリッツが、1864年にホボーケンで生まれたことです。その生家跡は、市の記念史跡にも指定されていました。1880年代、ベルリンに機械工学を学びに留学したスティーグリッツは、ヨーロッパで、芸術としても確立され始めた写真と出会い、それを生涯の仕事とします。24歳で、イギリスの写真コンペで第一席を勝ち取り、1889年にアメリカに戻り、写真撮影だけでなく、ギャラリー経営、写真雑誌刊行、写真評論を始め、フランスとイギリスの写真界の影響を受けた、ピクトリアリズムといわれるムーヴメントの中心人物となります。これは、西洋絵画の、審美主義、象徴手法を写真にも応用し、アメリカでも写真界に、ファイン・アートの領域を確立するものでした。スティーグリッツ自身の作品は、雨や、雪、霧の悪天候時に好んで撮影し独特の雰囲気を持った作品が、多く見られます。これらの写真は20世紀初頭のNYの貴重なドキュメンタリーとしての価値も、現在は持っているのです。1908年からは、自己の経営する291ギャラリーで、マチスや、セザンヌ、ロダン、ブラックらのヨーロッパの、新しい作家達や、アフリカン・アート、そしてアメリカの新しい世代の芸術家達に作品発表のチャンスを与えました。その中に、1924年に妻となる、20世紀アメリカを代表するアーティストの1人、ジョージア・オキーフがいます。この頃のスティーグリッツの作品には、オキーフのポートレートが、多く撮影されています。1946年の死に至るまで、スティーグリッツは精力的に、作品製作、そしてヨーロッパの模倣から脱却したアメリカン・アートの確立、啓蒙運動に取り組みました。その功績は、妻であるオキーフに勝るとも、劣らないものといえるでしょう。アメリカン・フォトグラフィー&アートの世界のフランク・シナトラといっても過言ではありません。

 ホボーケン生まれで、全米、全世界に誇るべきものがもう一つあります。アメリカだけでなく、南米、カリブ海諸国、日本を中心としたアジア各国でもナショナル・パスタイム(国民的娯楽)として、楽しまれているベースボール、野球です。1846年6月19日に、ここホボーケンのエリシアン・パークで、アレキサンダー・カートライト率いるニッカボッカーズとニューヨークスで行われたのを、正式な野球の起源とする。と、現在はいわれておりますが、野球誕生100年の記念行事が計画されたとき、1839年にニューヨーク州のクーパーズタウン(マンハッタンの北西約320キロ)で、アブナー・ダブルディ将軍が、初めてベースを埋め込んだダイヤモンドで、プレイしたのが野球の起源と認定されたため、野球の殿堂(Hall of Fame)はクーパーズタウンに造られ、毎年夏の殿堂入り関係者を祝うセレモニーと記念試合は、かの地でひらかれています。その後の調査、考証で、クーパーズタウンでのゲームは、ベースが埋め込まれた最初のゲームではあるが、ルールは原始的で、その進化発展形態を見ると、現在のベースボール・ゲームの直接の起源とは言い難く、1846年の、ホボーケンでのゲームをもって正式な最初の野球の試合と認定されたようですが、すでに定着したクーパーズタウンの殿堂を移すわけにもいかず、ホボーケンには商工会議所が、道路の分離帯の花壇の中に造った小さな石碑のみとなったのでした。もしも早い時期に、野球発祥の地と認定されていれば、しっかりした野球場もあったのかとも思い、残念です。ホボーケンには、テータム・オニールの”がんばれベアーズ”を思い出させるような少年野球用の小さなグラウンドのほかには、アメフトと共用しているいびつな形のスティーブンス工科大のグラウンドぐらいしかありません。そんなのでは、殿堂入り記念式典&試合などは無理なので、クーパーズタウンのままでよいのでしょう。

 野球発祥の記念碑の道路の向かいには、マクスウェルズという老舗ライヴ・ハウスがあります。ずいぶん前に、ベン・フォールズ・ファイヴの取材で一緒だった編集さんに、名刺を渡すと「お、ホボーケンですか。いいですねえ、あこがれの街ですよ。」といわれてびっくりしました。Bar-Non(まわりはBarだらけなのに)など、良質な、オルタネィティヴや、ロックのインディ・レーベルがいくつかあり、その手のマニアには聖地のような街のようです。それらのレーベルの所属アーティストが、よく出演するのがここマクスウェルズです。くだんの編集さんも、ここのスケジュールを見て垂涎しておりました。かつて、なぜか東海岸で人気があった、関西オバチャンバンド、少年ナイフや、元ポリスの変態ギタリスト、アンディ・サマーズ、ジュリアナ・ハットフィールドなどのライヴがあり、記憶に残っています。

 ここ数年のホボーケンは、人口が急激に増えました。好景気時期に、多くの人がNYCを目指し、しかし、家賃が高騰し、地方で大学を卒業して就職したばかりぐらいの若い白人の年齢層が、どっと押し寄せました。家賃も、NYCほどではないですが、値上がりしています。私なんぞは、同じ所に11年も住んでいるので、日本円にすると¥85,000ぐらいで2LDKを確保していますが、今この様な金額で部屋を見つけるのはまず不可能です。70年代以降は、すぐ北に全米でヒスパニック系の人口比率が、マイアミに次ぐといわれているユニオン・シティがあるため、スペイン語圏の人が、大幅に増加したようです。私の下の部屋も、同じ間取りにいったい何人いるんだと思える、ヒスパニック系の大家族が住んでいます。彼らは30年以上このビルにいるそうなので、毎年一定比率以上家賃が値上がりしないレント・コントロール法によって、冗談なような安い金額しか払ってないようです。しかし、今やこれらの人々の影が薄くなるぐらいの、若い白人層の大増殖です。それを顕著に感じられるのは、死ぬほどうるさいディナーや、混んで並ばなきゃいけないぐらいの週末のブランチで、落ち着いて食事が出来た5年ほど前が懐かしく思い出されます。ホボーケンは、こじんまりしたところにいろいろなレストランがあります。まあ、所詮はアメリカの地方都市ですので、限界はあるのですが、長年愛用のお店としては、ジャイアント馬場の草履のようなステーキが出てくる、アーサーズ・タバーンでしょうか。私が引っ越してきた頃は、$9.99だったのですが、今は$13.99まで価格も上がってきました。肉も、和牛とは比較の対象にはなりませんが、決してすじ肉というわけではなく、適度な柔らかさで噛みごたえもあり、肉を食べたということを、満喫させてくれるお店です。もっとも、ここで食べると少なくとも向こう10日間は、肉がほしいとは思わなくなります。私は、いつもサーブされると真っ先に半分に切り、食べない分にソースをつけないようにして持ち帰り、冷凍し、しばらくして肉を食べる気になってから、解凍してしょうゆ味で食べる、というのをいつも実行しています。日本から、家に招待したいぐらいの旧友が、訪ねてきてくれると、必ずここに連れて行き、バカ・サイズのカルチャー・ショックを味合わせ、そして河岸の夜景、最後に常盤家で、昔の日本の家に遊びに来てもらったときのように、いろいろなCDをかけながら、酒を飲むというのが定番コースです。ステーキを食べ過ぎた人は、飲みまで到達できないという問題をいつも抱えてしまいます。ターミナルの近くには、1800年代にオープンして100年以上の伝統をもつシーフード・レストラン、クラム・ブロス・ハウスがあります。NYのグランド・セントラル・ステーション構内にある、オイスター・バーと、双璧をなすぐらい美味しいシーフード・レストランと聞いていましたので、89年に、父母が訪ねてきたときに、肉料理ばかりではくどかろうと思い、行ってみました。父は、横浜のめぼしい店はほとんど接待で食べ尽くしているような人なので、レストランには気を遣い、信用の出来る日本人(アメリカ人が旨いという店は、まず信用できません。)のお勧めもあったので、ここを選んだのです。父のコメントは一言「レッド・ロブスターに連れてこられたのかと思った。」そう言われてもしょうがない、致命的なエピソードがありました。前菜で、蛤の白ワイン蒸しオーダーしたのですが、出てきたものは、砂抜きがしてなくてジョリジョリしていました。基本的にうるさい客である父は、私にクレームをつけるように指示をしたので、早速ウェイターに、砂が入っていると文句を言ったところ、何を言っているのだ、砂が入っているくらい、産地直送、フレッシュなのだ、と切り替えされてしまい、余りの感覚の違いにこちらが、グウの音も出ませんでした。ロブスターも、日本の伊勢エビに比べると、大味で何とも言えませんし、まあ海産物を食べるという伝統があまりないアメリカ人に、味付けを要求するのは、酷なのかもしれません。でもクリーミーなニューイングランド・クラムチャウダーは、なかなか美味しいです。

 あと何年か過ぎて、私が生活の基盤を日本に戻したとき、一番懐かしく感じるのは、NYのジャズ・クラブでも、飲み歩いたイースト・ヴィレッジやウェスト・ヴィレッジでもなく、ネコと平穏な時間を過ごした、ここホボーケンのような気がします。自由業で全く一人でやっていると、仕事の時には、常にある種の緊張感がつきまとい、それが刺激となって創作に立ち向かえるのですが、オフの時にその緊張感を引きずりたくないのは正直な気持ちです。もしも、マンハッタン内に住んでいたら、このテンションを完全に下げるのは難しく、20分ほどかけて川をこえると、別世界というこの場所が、私の創作の源泉の一つとなっています。街は、常に息づいています。人も増え、経済状況にも影響されて、変化していくものなのかもしれません。ここホボーケンも、マンハッタンの、ウェスト・ヴィレッジ・エリアの延長のようにもなってきましたが、私の日本の地元、横浜の弘明寺がどこか垢抜けないように、ホボーケンも、もう二、三歩ぐらい、トレンディ・スポットになるには足りないように思えます。自分の20代の頃と、そのころのホボーケン、今はもういないチャッピーを懐かしみつつ、この長いエッセイの筆をおきます。