Jazz Soundを創った男〜Rudy Van Gelder
50年代、60年代のジャズ・アルバムは、演奏スタイルだけでなく、録音されたアルバムのサウンド自体にも、強烈な個性があります。その時代の空気感を、現在に伝える、そのサウンドは、一人のレコーディング・エンジニアによって創り出されたと言っても過言ではありません。ルディ・ヴァン・ゲルダー、その人がすべてを創り出したのです。ブルー・ノート、インパルス、プレスティッジ、リヴァー・サイド、サヴォイ、CTI、これらのレーベルから発表された、名作といわれるアルバムには、必ず彼のクレジットがあります。今も、ニュージャージーのイングルウッド・クリフスで、その独自のサウンドを追求し続ける、孤高のアーティスト、ヴァン・ゲルダーと私の、交流は89年から始まりました。
リニー・ロスネスのファースト・アルバムのレコーディングで、私は、初めてこの伝説的なスタジオを訪れました。NYから、車でで30分ほど、ジョージ・ワシントン・ブリッジを渡り、パルサディス・パーク・ウェイに入って2つ目の出口をでると、典型的な郊外の住宅地に着きます。その中の雑木林に囲まれた一角に、スタジオはあります。そこは、1959年にヴァン・ゲルダーが、フルタイムのレコーディング・エンジニアとなった頃に、理想のジャズ・サウンドを捉えるために、自ら設計に携わり建設した、究極のジャズ・レコーディング・スタジオです。初めて、そこに足を踏み入れたとき、私はデジャヴにも似ためまいを感じました。フランク・ウルフによる、ブルー・ノートのミュージシャンのポートレートや、チャック・スチュアートの、コルトレーンのインパルス時代のアルバムの内ジャケットの舞台が、忽然と目の前にあらわれたのです。ビル・エヴァンスや、セロニアス・モンクの、リヴァー・サイド盤も、ここを舞台にしています。それは、思い入れたっぷりの名作映画のロケ地を、訪れたのにも似た体験でした。この日は、ブランフォード・マーサリスをゲストに迎えたセッションで、ブランフォードとも、このスタジオで録音された数々の名作の話で盛り上がりました。ルディはかなり気むずかしく、また大変な嫌煙家で、スタジオでタバコを吸うと、叩き出されると聞いていたので、私も心得ておとなしくしており、最後に、この伝説的なスタジオを訪れることが出来て光栄です、と挨拶を交わしただけにとどまりました。その2ヶ月後、今度は”スーパー・ブルー2”という、ドン・シックラーのアレンジによる、企画盤のレコーディングで、私は再びこのスタジオを訪れました。この時は、レコーディング後、バス・ルームにあったチバ・クローム(スライドから、直接プリントを作る技法)のプロセッサーをきっかけに、話を交わすことが出来ました。ルディは、バード・ウォッチングや、ネイチャー・フォトの撮影の趣味としており、その私室に案内し、コレクションを見せてくれ、カメラ談義に花が咲いたのでした。ひょんなことから、頑固一徹の職人にみえたルディの別の一面に触れ、ある種の信頼を得られることになったのです。これが、私と、ルディ・ヴァン・ゲルダーとの、現在に至る交流の始まりでした。
自宅に、大きな編成も録音できるスタジオを持つエンジニアというのは、アメリカでもかなり特殊な存在です。現在も、それぞれホームグラウンドというべき、レコーディング・スタジオ(アヴァター・スタジオなど)を使っているエンジニアは、いますが、完全に一人のエンジニアのために設計された、専用のスタジオというのは、ジャズの世界ではきいたことがありません。しいてあげれば、ポップスのエリック・シェーリングによるマイアミのエステファン・スタジオが、近い存在といえましょう。ヴァン・ゲルダーが、ジャズのレコーディングを手がけ始めた50年代は、メジャー・レーベルは、それぞれ社内に、専用スタジオを持っており、それぞれがその個性的な音づくりを競っていました。ブルー・ノートや、プレスティッジなどのインディペンデント・レーベルは、当初ラジオ局のスタジオなどで、レコーディングをしていたそうですが、急激に進歩するレコーディング技術への対応を迫られていました。そんなときに、ニュージャージーのハッケンサックの自宅のリヴィング・ルームで、録音をしていた独学のエンジニア、ヴァン・ゲルダーが、登場するのです。当時は、本職は眼鏡の検眼技師で、録音は趣味の一つだったのですが、生来の凝り性から、独自のサウンド・スタイルを築きつつあったのです。そして、その才能は、ブルー・ノートのアルフレッド・ライオンとの出会いにより開花します。ブルー・ノート1500番台や、プレステッジの諸作の舞台となった、ハッケンサックのヴァン・ゲルダーの両親の家は、1940年代にその父によって建てられました。普通の家の、リヴィング・ルームで録音されたと言っていますが、いろいろ話を聞いていると、ヴァン・ゲルダーの父が、息子のためにレコーディング・スタジオに転用できる構造で、建築したように思われます。大きなガラス戸によって、コンソール・ルームと、録音ブースが仕切られ、現在のスタジオに近いスタイルが、すでに見受けられます。ヴァン・ゲルダーの、派手なドラムのシンバル・ワーク、クリアなピアノ、骨太なベース、そして太くなり響くホーンというスタイルは、モノラル録音だったハッケンサック時代にすでに、完成しています。そして、イングルウッド・クリフスのスタジオが完成した頃には、ステレオ録音の成熟と相まって、その様式美にさらに磨きがかかるのです。著名な建築家フランク・ロイドの直弟子と、ヴァン・ゲルダーの、共同設計のこのスタジオは、適度なナチュラル・リヴァーヴがかかり、ワン・アンド・オンリーの、ホーン・サウンドが、創り出されます。ブルー・ノートの、ハンク・モブレーの諸作や、インパルスのコルトレーンのアルバムのサウンドは、この天井に秘密があるのです。ヴァン・ゲルダーは、当時は多くのライヴ録音も手がけています。その代表作は、やはりバードランドのジャズ・メッセンジャーズと、コルトレーンのライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガードでしょう。コルトレーンは、演奏中にステージを歩き回りながら、長いソロをとるので、据え置きマイクでは録音不可能でした。ヴァン・ゲルダーは、客席の一番前を陣取り、マイクを手に持って演奏中のコルトレーンを追いかけて録音したことから、"Chasin' the Trane"という曲のタイトルが出来たそうです。コルトレーンの発散する、パワー、情熱を一音たりとも逃さず捉えようという執念が、アルバムに刻まれています。あまた数あるブルー・ノートのレコーディングセッションの中で、ヴァン・ゲルダーは、ベスト・セッションとして、ハンク・モブレーの"Soul Station"をあげています。すべてのヴァイブレーションが、最良の形で結実した作品と語っていました。ブルー・ノート盤で、ヴァン・ゲルダーがカッティングまで立ち会った作品には、必ず内周部にRVGの刻印が記されています。これこそ、ヴァン・ゲルダーの作品への自信をあらわしています。
90年代初頭、夫人の体調不全などから、不調が伝えられたヴァン・ゲルダーですが、また不死鳥のごとくよみがえり、精力的な仕事を続けております。私自身もあまり、お目にかかるチャンスが少なくなっていたのですが、98年の、東芝EMIによるRVG24ビット・リマスター・シリーズの、発売が始まってから、また交流が復活しました。このリマスター・シリーズは、日本でのあまりの反響を受けて、アメリカでも一部の再発売がすすんでいます。日本盤は、原盤に忠実で、別テイクを入れてないのですが、アメリカ盤には、別テイクや、スタジオでのミュージシャンの会話も収録されています。ヴァン・ゲルダー自身は、アルフレッド・ライオンが、オクラと判断したものを今さら世に出すべきではないと考え、アメリカ盤には多少の不満もあるようです。これらのアルバムの再発売をきっかけに、ルディ・ヴァン・ゲルダーの再評価もまたすすんでいるのは、非常に喜ばしい状況です。新録音も、着々と進み始めました。この10年ぐらいをデジタル録音の研究に費やしたと、ヴァン・ゲルダー自身が語っていますが、そのパワフルなサウンドは、新しい次元に突入したと言えます。99年に、吉祥寺メグ店主で、評論家の寺島靖国氏と、スタジオを訪れたときも、忘れがたい思い出の一つです。辛口評論でならす寺島氏ですが、オーディオ・マニアということもあり、ヴァン・ゲルダーが氏にとっての最大のアイドルだそうです。当日会う前から、少年のように緊張し、嬉々としてスタジオ内を見て回り、その対談の折には、感極まってほとんど錯乱状態でした。初対面の人には、取っつきにくい印象を与えるルディにも、様々な質問をし、最初の頃は、ルディも引き気味でしたが、やがて寺島氏の真意をくんで下さったのか、和やかな雰囲気で対談を終えました。日本にこれだけ熱狂的なRVGファンがいるということに、いささか驚いたようです。
このように復活した交流から、ルディは、私に数々の貴重なコレクションを見せてくれました。まず、彼が今まで使っていたカメラの数々。これらは、1940年以降の、カメラの歴史そのものでした。一枚ずつフィルムを装填する、4X5のプレス・カメラ、数々のブローニー版のカメラ、そして35mmカメラ、現在は、私と同じキャノンのEOSシステムを愛用とのことです。彼が撮影した写真の中でも貴重なのは、50年代にハッケンサックの自宅を4X5の大判カメラで撮影した、カラー写真でした。コダクロームという、ポジフィルムで撮影されたこの写真は、いまだに色鮮やかで退色が少なく、デュープ(コピー)をとるために持っていった、現像所のラボマンとも、50年たっても消えないその色に驚かされたのでした。私が敬愛する、ブルー・ノートのプロデューサー兼写真家、フランク・ウルフとも、よく写真談義をしていたそうです。数年前、マイケル・カスクーナが主宰する、モザイク・レコードのコネチカットのオフィスを訪れた時に、ウルフのオリジナル・ネガを見て、その状態の良さに驚かされました。ルディによると、フランクはローライの2眼レフのブローニー版のカメラを使い、フィルムはいつもトライX、露出はf8かf11で、バルブのストロボを片手に持って、斜めから光を当てて撮っていたとのことでした。何度か、フランクのカメラを使って撮らせてもらったことがあるのだけれども、どうしても同じには撮れなかったねえ、と話していました。あの数々の美しいプリントは、ブルー・ノートの有名なギャランティされた、2日間のリハーサルに撮影されたそうです。
1924年生まれの、ルディ・ヴァン・ゲルダーは、今年77歳になりますが、その仕事ぶりは衰えることを知りません。しかし惜しむらくは、その直接の後継者を持たないことでしょう。録音技術をすべて独学で学んだ、ヴァン・ゲルダーは、スタジオにエンジニア関係者を入れることをかたくなに拒みます。また、コンソールの写真撮影も禁止しています。理由を尋ねると、「これといって、特殊な機材を使っているわけじゃないんだけれども、長年これでやってきたから、今さら見せる気も起きないんだよ。」と語ってくれました。スタジオは、すべて彼一人でコントロールできるように設計されています。アシスタントは、モーリーン・シックラー(アレンジャーのドン・シックラーの夫人)が長年務めていますが、彼女がマイクのセッティングや、ハードウェアに触れることはなく、もっぱら録音データの記録に携わっています。ヴァン・ゲルダー自身、後継者の育成には、全く興味がないようで、まるで宮本武蔵が、その天才故についに後継者が出来なかったように、ヴァン・ゲルダーも一代で、その芸を完成させ、すべてを残さないという、潔い道を選んだのではないのでしょうか。しかしその業績は、いくつもの不滅の金字塔を建てました。バーや、レストランで流れるリッチさや、エレガントさを感じさせるジャズの音、そのイメージを創りあげたのは、ヴァン・ゲルダーのサウンド・デザインなのです。また数度にわたるインタビューをきいていると、ヴァン・ゲルダーがその生涯で、もっとも尊敬し、啓発されたプロデューサーは、ブルー・ノートのアルフレッド・ライオンただ一人で、唯一無二の存在であったということが分かります。そこに当時のブルー・ノートに関わった人々の情熱を感じられ、あれだけの長い期間にわたり、クオリティの高いアルバムを制作し続けた、ブルー・ノート・レーベルの、秘密の一端に触れたような気がします。ジャズが時代の最先端で、もっともクリエイティヴだった時代を担った人が、今も我々の側にいる。本当に素晴らしく、心強いことでは、ないでしょうか。